負けいくさ

俺は敗北主義者なのだけれど、その理由を書く。


人は生まれた瞬間が勝利で、あとは最期の死という敗北に向かうだけだ。
人生が美しく思えるのは、決められた敗北を知っていてなお、泣いたり笑ったり、楽しいものを作ったりして暮らすからだ。出産が感動的なのは、敗北の中から新しい勝利を作ろうとするからだ。
だから、人の死に敗北以外の理由はない。死ぬ人の敗北と、周りの人の敗北、それだけだ。なにか別の理由があって死があるなら、死は私たちの中にあるものではなくなる。不死の人間が既に何人かいてもかまわないことになってしまう。
病気で死ぬ人は病気に負け、老衰で死ぬ人は老いに負け、事故で死ぬ人は事故に負け、災害で死ぬ人は災害に負け、貧困で死ぬ人は貧しさに負け、誰かに殺された人はその誰かに負け、死刑になる人は法律や社会に負け、殉死する人は信じたものに負け、自殺する人は絶望に負ける。
負けようとしている人を助けることは自然なことだが、助けられないこともある。それはまた、別の重さを持った敗北だ。そして、私たちはときどき、手を貸そうとしただれかを敗北から助けられず、失ってしまう。
負けようとしている人を見ているだけで助けないこともよくある。手は小さく、多くの人を支えることは難しく、逆に倒してしまうこともあるからだ。また、負けようとしている人のことを憎んでいたり、関心がなかったりすれば当然見殺しにするだろう。
いつか敗北するということ。敗北しようとしている人に手を貸すことができること。手を貸して敗北から引き上げられないこともあること。自分がその人は敗北するとわかっていて、そしてそのまま敗北していく人がいること。


不死の技術が開発されたら、その先に何があるか知りたいので、真っ先に実験体に名乗り出ようと思っている。