湯浅誠講演抜書

12日*1に書いたURLのうち、
http://www.nanzan-u.ac.jp/ISE/japanese/database/discourse/2006yuasa.html
中から、自分用の備忘として抜書き、強調、コメントする。南山大学社会倫理研究所に怒られたら消す。
でも読みにくい。

「五重の排除」と言いましたが、ざっと言うとこういうことです。早期に教育課程から出てしまっている。そうすれば当然正規雇用には就けない。正社員としての雇用保険社会保険も受けられない。労働組合の共済なんかも受けられない。こういう労働の福祉から排除される。非正規雇用だと当然仕事と仕事の間にはざまが生まれたり、あるいは常用雇用といわれていても日給月給の仕事だと月10日ぐらいしか仕事が回ってこなくて、月10万の収入に行かないなんていうことは普通にあります。
そういうときに、1600万人いるフリーターがなぜ全員生活困窮にならないかといえば、親元にいたり、親から援助が受けられるからです。ことしの厚生労働白書で、フリーターは年収が少ないから親元を離れられない。これが少子化の一因であると書かれていました。逆にいうと、親に頼れないということはそれだけ厳しい状態になるということです。この親に頼れないという事情がある。
企業福祉と家族福祉というのは、日本の戦後の社会保障を支えてきた、いわば一番の要です。日本の社会保障を支えてきたのは公的社会保障ではありません。家族と企業がいわば社会保障の含み資産だったわけです。そこがだめだとなれば、公的福祉に頼る以外ない。ところが、彼らが行っても、世間で一般の人が思うように「あんた、それは甘いでしょ」と。
彼らが仕事を辞める理由は、全員が全員とは言いませんが、私が聞き取った範囲内では、先輩が仕事を丁寧に教えてくれなかった、いじわるをされた、あるいは、仕事を始めたときに自分がこの仕事をできると思えなかった、とてもついていけないと感じたと。そんなことを言っても、2ヶ月、3ヶ月と続けていれば仕事に慣れるでしょう。先輩が教えてくれなかったら自分から教えてくださいと頭を下げるのが仕事というものだろうと言われてしまうわけです。しかし、それができない。そうすると、要するに、そういう人間はだめな人間であると周囲からも言われる。親からも言われる。何よりも自分自身がそう思う。だから、自分には生きている価値がないと感じる。これが自分自身からの排除です。
この五重の排除の結果として貧困が生まれるんだと私は思っています。貧困というのは、どういう状態かというと、私は「溜め」のない状態なんだと言っています。イメージしづらいと思うのでこういう感じで考えてもらうといいと思うんですが、「溜め」というのは人を取り巻いているバリアみたいなものです。いろんなものを含みます。例えば、金銭的な「溜め」といえば貯金です。頼れる親がいるとか、転がり込める友人がいる。例えば、彼は新宿でバイトをしているとき、お金がないときでも食事をおごってもらえていました。こういう友人関係がある。これも人間関係の「溜め」です。ちゃんと面倒をみてくれる人がいれば、風邪をひいても1日で治ったりします。職場で辛いことがあっても、一緒に酒を飲んで上司の悪口が言える同僚がいるとか、家に帰って愚痴を聞いてくれるかあちゃんがいるとか、そういう関係があると何とかそういうのをやり過ごせたりする。そういうのも「溜め」です。
家があるというのも「溜め」です。家がある人にとってはほとんど意識されませんが、野宿している人にとっての雨を考えてみてください。野宿している人にとっての雨というのは、寝具の段ボールが濡れます。食事が濡れます。要するに、濡れた御飯を食べて、濡れた所で寝るんです。そうしたら、普通は体を壊します。家がある人にとって雨というのはちょっと憂うつだなとか、洗濯物が乾かないとかそんな程度で済みますが、それは雨露を防ぐという非常に基本的な「溜め」の機能を持っているということです。
ですから、そういう「溜め」を十分持っている人は、いろいろ外界の刺激があっても、それがもろに生活に響かないわけです。例えば、300万人、400万人の人が失業しています。しかし、失業してみんながホームレスになるわけではありません。次の仕事までのお金がある。失業保険が受けられる。誰かから仕事を紹介してもらえる人間関係を持っている。そういう「溜め」があれば、失業は必ずしも生活に響かない。
しかし、この「溜め」が非常に小さくなってしまっている人がいるわけです。その人はちょっとしたことが非常に深刻な事態をもたらす。例えば、風邪をひいても誰も面倒をみてくれない。動けないから食事もできない。ずるずる1週間、10日と行ってしまう。ただでさえ不安定な仕事に就いているので、当然クビになります。そうしたら、いよいよ今度は病院にも行けない。家賃も払えない。どんどん生活が悪化していく。決定的な事態になるということです。
これは、もう一方で自信みたいな面を持っている。例えば、新しい仕事に就いて、見たこともない工場でやったことのない仕事をする。扱ったことのない機械を扱う。でも、この仕事を1週間、1ヶ月やれば俺はできるようになる。俺にはこの仕事ができる。こう思うことに実は根拠がありません。根拠がないけれど、いままでそういうことをやってきて、新しいことができたということを経験的に学んでいる人は、それまでやったことがないことであってもやれる気がするんです。そして、実際にやれたりする。しかし、そういう成功経験がない、そういう体験をさせてもらったことがない人は、そういう自信が持てない。やれるという気がしない。自分がこの仕事をできるととても思えない。やればできるんだとみんなが言うけれど、できる気がしないというようなことです。
そういうことも含めて、私は「溜め」ということを考えていて、「溜め」がすごく小さくなってしまうことが貧困だと思っています。お金がないとかそういうことだけではない。だから、私はこの「溜め」が人に見えたらいいと思うんです。人に見えたら、この人はでっかい「溜め」を背負って生きているとか、この人の「溜め」は小さいというのがわかるわけです。そうしたら、「溜め」の小さい人に「あんた、体に悪いところはないんだから働けよ」と誰も言わない。まずその「溜め」を大きくしないと仕事に就けないねと、誰でもわかる。福祉事務所の人もわかる。だけど、それが見えないから、どうしてもみんな同じような「溜め」を持っているような気になってしまうわけです。
自分がお金を持っていて、きちんとした所で働いていて、家族がいて、いろんな「溜め」を持っている人ほど、自分一人で生きているような気になっているので、厳しく言うんです。「何を言ってるんだ。俺は苦労してやってきたんだ。おまえ、そんな甘えたことを言ってるんじゃない」と。だけど、背負っている「溜め」が違うんです。だから、それが見えないということが非常に大きな問題であり、「溜め」が見えないというのはつまり貧困が見えていないということだろうと私は思っています。
これは私の意見かと思っていたら、茨城大の稲葉さんという先生がいますが、その人に「あなたの言っていることはアマルティア・センの言っている貧困の話と似ているように感じるので、読んでみろ」と言われて読んでみたんです。そうしたら、アマルティア・センは「貧困とは、基本的な潜在能力が奪われた状態だ」と定義しています。それを読んでもいまいちわからなかったんですが、「潜在能力」と訳されている言葉は原語では capabilityという言葉だそうで、「溜め」というのはいわばキャパですから、日本語でもあの人はキャパがあるとかといいますが、そういう capacityなので、言葉として非常に持っているものが近い。おお、センも俺の意見と同じかと思った次第です。
とにかく、五重の排除に基づく「溜め」のない状態が貧困であると、私は思っています。そのことを見ないと、貧困のことというのはなかなか実践的には考えられないのではないかとも思っています。
例えば、マスメディアがホームレス問題を取り上げるときでも、この人が仕事を1日で辞めてしまうという話は絶対に取り上げない。なぜならば、そういう話をしたら反発を食うからです。だから、この人はいろんなことを頑張っているんだけど、病気で働けなくなったとか、あるいは、頑張ってハローワークに行っているんだけどどこも雇ってくれないとか、取り上げるときはそういう理由で取り上げるわけです。それは人々の共感を呼ぶわけです。でも、現実にはそういう人は、いないとは言いませんが、ほとんどいない。多くの人はやはりせっかく就いた仕事を1日で辞めてしまったりするんです。でも、世間は自分たちの仕切りを持っていますから、それを取り上げれば反発を食らう。
例えば、病気で働けないと言えば、それはかわいそうだね、それはしょうがないねと言います。だけど、考えようによっては、病気だって自分の健康管理ができていない、自己責任だと言えるはずです。でも、そういう人は多くない。仕事で自分がついていけないと感じる、どうしても自信が持てないから辞めると言うと、それをしょうがないねと言う人はいない。仕事に関しては自己責任論でほぼ100%突き進むというところが仕切りになってしまっているので、その仕切りを壊さないと、フィクションをつくらないといつまでもみんなに理解されないという構造を壊せなくて、本当の意味で貧困問題を扱えないというか、対応できないと私は感じています。

五重の排除=教育、労働、家族、公的福祉、自分自身からの排除。
「溜め」が少ないと「まじめ」ではいられない。「まじめな」ホームレス、「まじめな」フリーターが苦労していないと共感できない。

3. 「生活困窮フリーター」という呼称
さきほど紹介してきたような人たちのことを、私は「生活困窮フリーター」と呼んでいます。文字どおり、生活困窮しているフリーター。これについては簡単に済ましますが、NHKスペシャルでやってから最近「ワーキング・プア」というのが話題になって、また特にフリーター労働組合とかをやっているような若い社会運動系の人たちの「プレカリアート」という言葉もあります。生活困窮フリーター、ワーキング・プア、プレカリアート、大体指しているのは似ているんですが、自分が考えたから言うわけではありませんが、やはり生活困窮ということをもっとストレートに出すべきだと思っています。ワーキング・プアとかプレカリアートというと、ちょっと焦点がぼけるというか、横文字にすることによって通りがよくなってしまう。ということで、私はその世代の人たちについては「生活困窮フリーター」、全体を指すときは「貧困」と言っています。
要するに、この貧困が見えていないということです。どのように見えていないかというのを1例だけ言うと、貧困というのは、貧困としては問題にはならないんです。どういうことかというと、貧困が問題になるのは、例えば借金生活に陥ってしまった、あるいは家賃が払えない、医療費が払えないとか、そのように個別の問題を通じて出てくるわけです。例えば、遊び過ぎて多重債務に陥ったんだろうと思われていますが、33%の人たちは生活苦が原因です。つまり生活が成り立たない、貧困なんです。貧困であるがゆえに多重債務になる。
多重債務を解決するのは誰かといえば法律家です。弁護士さんであり、司法書士さんです。弁護士さんや司法書士さんは、多重債務を解決すれば問題は解決すると思ってしまう。だって、そういう債務整理をするのが彼らの仕事だから。相談を受けたときに、「これであなたの借金は整理できるから、もう二度と借りちゃだめだよ。高金利でこんな痛い目に遭うんだからね。もう絶対借りちゃだめだよ」と言って解決するわけです。ところが、その人はまた借ります。二度でも三度でも四度でも借りる。そうすると法律家は、あれほど借りないと約束したのに、なんてあなたはだらしがないんだという話になって、あきれて怒るわけです。しかし、この人の側からしたら、借りなければ生きていけないんです。借りなければ生きていけないという貧困問題をその人は持っているわけです。だから、貧困のあらわれである多重債務の解決というのは、この貧困の問題に届かない限りどうにもならないわけです。ところが、そこがなかなか見えない。見ようとしない。なので、貧困の問題が解決されないということになるわけです。
貧困が見えないというのは、例えば政府もそうです。日本には公的な貧困線というのがありません。アメリカの例を御存じですか。公的貧困線が設定されていて、それを下回れば貧困だと定義されています。毎年アメリカで貧困線を下回っている人は何千万人というように発表されます。ところが、日本はこれがない。だから事実上、生活保護基準が貧困線になっています。ところが、生活保護基準なんてほとんど誰も知らない。自分の御家族の最低生活費を知っている人はいますか。あれは住んでいる場所や家族の構成、年齢によって全部変わってくるんです。結婚しているか、子供がいるか、おじいちゃんおばあちゃんと暮らしているか、その人たちはそれぞれ何歳か、どのエリアに住んでいるかによって、最低生活費は変わってくる。ところが、「自分の最低生活費は?」と言われて答えられる人に、私は会ったことがない。「自分の地域の最低賃金は?」と言われたら、答えられる人はいるんです。労働組合の人とかはすっと答える。これは不思議なことで、最低賃金は労働場面しか規制していないものなんです。最低生活費というのは労働だけじゃない。年金も入れて、仕送りも入れて、要するに生活のすべてを入れたものを憲法で規定しているわけです。一番根本的な数値なんだけど、ほとんど誰も知らない。それだけ貧困に鈍感になっているということです。
自分の最低生活費を知らなければ、自分が貧困かどうかわからない。生活保護以下で暮らしている人がどれだけいるか、これは捕捉率の調査というんですが、政府もあえてこれをやりません。もう30年間やらない。だから、どれだけ日本社会に貧困があるのか誰もわからない。私もわかりません。学者さんで調べている人がいて、大体800万人とか1000万人だろうと言っています。ただ、大規模な調査ではないのでわかりません。
もう一つ、マスコミもそうです。マスコミも貧困という言葉を取り上げることを非常に嫌う。これは外国人にとっては非常に不思議なことらしくて、日本でなぜこんなに貧困という言葉が使われないのかということを調べたフランス人の留学生がいます。彼女は、朝日新聞が 1990〜2002年までの12年間でどれだけ「貧困」というタイトルを挙げた記事を書いたかを調べたんです。そうしたら、350件ありました。ところが、そのうちのほとんどはアフリカの貧困とか海外の問題です。そして、25件が残ったそうです。この残った25件のうちの17件は芸術の貧困、政策の貧困、発想の貧困とか、そういうものです。国内の貧困者の貧困を扱ったのは12年間で8件しかなかった。1年に1回も出ていない。
皆さん、いま「格差」という言葉がどれだけ出ているか思ってみてください。あれだけ爆発的にどこでも使われるようになって、もう何でも格差ですよ。教育間格差、地域間格差ぐらいまでならわかりますが、病院間格差とか手術件数の格差とか、とにかくいま何でも格差が使われている。それに比べて貧困という言葉がどれだけ避けられているかということです。政府も見ない、マスコミも見ない、社会も見ない。では、この問題は誰が見ているか。誰も見ていないわけではありません。それが貧困ビジネスです。マーケットが見ていると私は思っています。

マスコミも政府も「格差」とはいうけど「貧困」とは言わない。もちろん日常会話でも。日本全部で「貧困」の存在を無視して、無い物のように振舞っている。

4. 貧困者ビジネス
マーケットが見るとはどういうことか。規制緩和が進んでいますが、規制緩和が進むと、いままで社会保障の領域内にいた人がそこから追い出されます。追い出されるというか、市場に出されます。市場で契約主体になる。これがこの間の規制緩和の流れです。そうすると、貧乏人がどうなるか。多くの場合、この貧乏人は市場からも排除されると思われています。郵政民営化のときに何と言われたか。過疎地では郵便が届かなくなると言われたんです。利益が上がらないから民間はそんな所に行かない。五重の排除の結果として生まれた貧困者は市場からも排除される。つまり、6番目の排除があるんだという意見です。これはかなりの部分正しい。でも、私は一面的だと思っています。この五重の排除を受けた存在だからこそターゲットにできるというビジネスもある。それを私は貧困ビジネスと呼んでいます。
例えば、非常にわかりやすいのは消費者金融です。生活苦に陥った人をこそターゲットにしている。3割以上はそういうお客さんで、そういう人にどんどん貸すことで利益を上げている。あるいは、人材派遣、請負、偽装請負とかいろいろ出ていますが、そういうのもある意味わかりやすい。あした食べるお金がない人はどんな労働条件であっても受け入れます。だからこそ、人材派遣会社はあれだけ大きくなれた。
私に相談した人が言ったことで忘れられないのは、47歳の人が20年間の自分を振り返って、自分が仕事を選んできたときの最優先条件は寮と食事がついていることだと言ったんです。彼は時給や日給が幾らとか、正規雇用非正規雇用かなんかどうでもよかった。住む所がない、食事がないわけだから、まず寮と食事がついている所こそ彼にとって必要な職場だった。そういうところで基本的な労働基準法が守られるわけがない。とにかく、そういうことです。ところが、金融や労働だけではないのでそういうのを幾つか紹介したいと思います。全部は話しきれないので、居住の話をします。
これは、フリーター向けの飯場と私は言っていますが、レストボックスという所です。要するに、定まった住所を持たないフリーターに安く泊まれますよと呼びかけている宿泊所です。これは3年か4年前にできて、あっという間にこれだけ広がりました。山手線全線ほぼ東京都内にあります。これは今後全国化していくと、私はみています。
漫画喫茶に泊まったことがある人がいるかもしれませんが、いないかな、夜間パックで9時間1500円とかと安いんですが、シートが完全にフラットにならない。私も終電をのがして何度か寝ましたが、ちょっと寝た気がしないんです。最近の漫画喫茶は進化していますから、シャワーもついているし、中で軽食も食べられる。要するに、そういう住む人を当て込んでいるつくりになってきているんですが、それでも十分ではない。そういうところに、レストボックスは二段ベッドで10人部屋だけど1泊1500円で泊まれますよ、泊まる場所のないあなたには朗報ですよということで打ち出した。
ここは仕事も紹介します。もともとは建設現場の雑務を提供している会社がバックについてつくった事業です。住みかと職場が一体になったこのシステムは、建設労働現場では古くから飯場システムと言われて、日雇いの人たちの不安定な状態を象徴する言葉でした。それと同じシステムをフリーターに朗報だといってやっている。これはマスコミもかなり好意的に取り上げています。ちなみに、この社長は自分自身が2年間車中生活をやっていたホームレス経験のある人です。前橋さんという人ですが、今度自伝を出しました。『ぼく、路上系社長―ホームレスからでも立ち直れるから大丈夫!』というタイトルです。私も一度会ったことがありますが、髪の毛がさらさらでサーファーを目指していたという人です。これは典型的な貧困ビジネスですが、そうは受け止められないんです。
これはさっきちらっと話したレオパレス21の話です。レオパレス21に入る人は賃貸借契約ではありません。あれは普通のアパートやマンションではなくて、レオパレスの会員契約です。どういうことかというと、レオパレスがあなたと結んでいるのは賃貸者契約ではないので、借地借家法には縛られませんというわけです。だから、1カ月でも滞納したら追い出しますと、ちゃんと会員規定に書いてある。
なぜそのようになるかというと、いまは投資マンションバブル、ちょっと落ちついたといわれていますが、80年代のバブルのときの地上げと違うのは、土地を転がすことによって利益を得るわけではない。上物を建てて、そのマンションに人が入って、この賃料を利回りとして不動産投資の対象になっているわけです。それであれだけREITとかお金を集められるんです。つまり、入居率が命です。
これはレオパレスの事業報告書ですが、「賃貸あってのアパート経営」と書いてあります。そういう考えです。どういうことか。いままでのように礼金、敷金で高いハードルを設けて確実な人しか入れないのでは入居率が確保できない。だから、敷居を下げる。礼金、敷金、保証人不要だといって、貧困者でもアクセスできるようなシステムにするわけです。しかし、そうなれば当然滞納リスクは上がる。だから、一方でいかに追い出しやすくするかということを考えなければいけない。それで、ああいう契約にするわけです。
保証人ビジネスも同じです。いま連帯保証人になるという家賃保証をするビジネスがたくさん出てきましたが、あれが一番訴えているのはオーナーや投資家です。つまり、我々がついていれば本人が出るまで責任を持って保証しますというわけです。フォーシーズという会社があって、不動産業界では「滞納保証事業で健全成長!! 回収業務に独自のノウハウ」といってベンチャービジネスとして取り上げられている会社です。フォーシーズが立て替えていた金額は、平成18年で12億円を超えました。12億円を超える立て替えをやってなぜこの会社はもつのか。それ以上の収入があるからです。なぜそれ以上の収入があるのか。賃借人が滞納すると彼らは3日以内に立て替え払いをします。そうして、その立て替え払いした金に年40.004%の利息をつけて本人に請求します。しかも彼らは保証の代行だといいながら、実は入居する人の親とかに保証人をつけさせます。そして、そこにも40.004%をつける。つまり、サラ金業者なんです。回収業務に独自のノウハウ、要するに取り立てがうまいということです。こういうビジネスが業界的には非常に注目されて、いまどんどん増えているわけです。
これは野宿者を対象にする貧困ビジネスです。宿泊所というのはいま全国で1万2000人の規模があります。その最大手がNPO法人エスエスエスというNPO法人です。このNPO法人は、都内を中心に約130カ所5000人の定員の施設を持っています。彼らはどうやって事業規模を拡大していったかというと、これはちょっとわかりにくいのですが、ホームレスの人の宿泊所というのは社会福祉法に基づいています。ところが、これは何の規制もありません。明治時代にお金を持っている篤志家が自宅を開放して貧民救済をした。それをちょっと裏づけるための規定なんです。それがそのままいままで使われてきているので、何の縛りもありません。彼らが頭が良かったのは、ここに目をつけたことです。
路上から人を連れてきて、6畳の部屋に3人とか4人入れる。そして、生活保護を取らせて、最高額の住宅扶助を請求するわけです。東京でいえば、生活保護の住宅扶助の上限は23区内で1人当たり5万3700円です。5万3700円というと一般のアパートも、風呂付きは借りられないけど、まあ借りられる。でも、それぐらいが精いっぱいです。でも、このシステムにすれば、ホームレスを連れてきて4人入れればその6畳一間の部屋から20万円の上がりが出るんです。こんないいビジネスはない。それで、彼らはどんどん路上から連れていって、どんどん儲けて、次のビルをどんどん競売で落としていって、あっという間に5000人規模の施設をつくってしまった。こういうのも貧困ビジネスだと思っています。ちなみに、愛知県は届け出ているのは 1件しかありませんが、名古屋市には470人程度の規模の宿泊所があります。9割方はエスエスエスみたいな所だと思って間違いありません。
格差よりもむしろ貧困ということを見るべきだと私は思っています。貧困ということを見ると、さっき話したように、貧困が労働分野、福祉、居住、金融とかいろんな問題の中に滑り込むように入ってきているということが見えてきます。多重債務の問題も貧困の問題と深く関与しています。労働の問題もそうです。何度労働争議を解決しても、不安定な雇用の人は不安定な雇用に就くしかないんです。その問題を何とかしなければ、労働争議を何十件解決してもまた同じ問題が起きるに決まっている。居住も、金融もそうです。そのように貧困という領域が広がっているんだけれど、さっきも話したように、政府も、マスコミも、社会も見ていない。誰が見ているかといえば、貧困ビジネス
でも、貧困が見えないと貧困ビジネスも見えません。サラ金は金融の問題だと思っている。人材派遣は労働の問題だと思っている。居住の問題に至っては、こういう問題があること自体をほとんどの人が知らない。つまり貧困という領域を見えるようにして初めて、それをターゲットにしている貧困ビジネスもその共通点において見えてくると感じています。ですから、多様な分野があって、そこで多様な活動が行われているけれども、その共通点として貧困ということがあって、それがいまじわじわと広がってきているんだという認識を持つことが特に大事なのではないか。私は普段こういうことばかりやっているので特にそう思います。

金を絞る人たちだけが正面から見ている。
>10人部屋だけど1泊1500円
1500*30=45000。
>ちなみに、この社長は自分自身が2年間車中生活をやっていたホームレス経験のある人です。前橋さんという人ですが、今度自伝を出しました。『ぼく、路上系社長―ホームレスからでも立ち直れるから大丈夫!』というタイトルです。
isbn:9784750506128
新手の釣りか。ここで言われてる内容が本当なら、やってることはヤクザのシノギとかわらん。
アマゾンのコメントからだと信じられないが。ちゃんと読んで書いてんだろうか。

「レストボックスが快適だったら、どうなりますか? 世の中レストボックスだらけ、つまりフリーターや派遣社員だらけになってしまいますよ。ですから、ある程度劣悪な条件・環境で我慢してもらうのです。いつかこの場所から抜け出してやる、という気持ちを持ってもらうためです。レストボックスのひどさを非難するばかりでなく、実はこんな面もあるということを理解して欲しいですね」
と語るのは、自らフリーターでレストボックス生活を体験して一念発起、いまや大手人材派遣業などを手がける、経営者M氏である。

http://moneyzine.jp/article/detail/16731/

どうやらマジらしい。