村上春樹エルサレム賞受賞講演にかこつけて書きたいことを書く

http://anond.hatelabo.jp/20090218005155
参考にした翻訳は上記の物です。いろいろ関連情報も紐づけられているので便利。

メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

私はこの部分が印象に残りました。誤読を恐れずに読むならば、「壁と卵」の「壁」に類するものは、村上春樹の、また私たちの心の中にもあって、私たちはいつも「壁」と向き合っている、そしてそこに碑文を刻んでおかなければならない、そのように受け取りました。
システムとは人が集まって出来たものというだけではなくて、そのシステムから私たちが心の中に取り込んだ物でもあるからです。これは講演の内容とも矛盾しないと思います。暗喩の意味は「ある場合には」まったく明快だといっているように、「壁」は戦車とかハマスとかイスラエルなどを指す場合もあるでしょうが、極言すれば、殺される市民のなかにもあるのです。
finalventさんも言っておられる*1ように、「壁」が悪、「卵」が善ではなくて、逆もあるのです。『アフターダーク』では、殺人犯と裁判の話がありましたが、殺人犯は悪ではあるが「卵」です。裁判が「壁」です。そのような場合にも「卵」のことを自分と切断してはならない、それは自分自身の「壁」を分厚くしてしまう。そういうことです。*2「壁」は魂を固まらせます。そうして「卵」が犯す以上の悲劇をもたらします。その予感というか確信が、この講演のバックにあるのだろうと思います。この講演の内容は、またfinalventさんの意見を踏襲するようですが、直接政治とかかわることというよりは、小説家、ひいてはいち個人が社会と対するときの基本的な姿勢についてのものであると思いました。そして、そう解釈する私にとっては全面的に肯定でき、イスラエルまでいってこれを話すということは、いかに私たちの中の「壁」が世界の「壁」に繋がっているか、それを告げるための行動であったのだと思います。
あと、父親についての話が本当に驚きました。国語か何かの教師だということしか聞いたことがなく、これまで村上春樹が意識的に避けてきた語りだったからです。ひとつの転機なのではと感じました。
ここまでは講演の感想ですが、あとは今回の講演に絡めた「私と村上春樹その2」です。読みたい人だけどうぞ。


その1はこちら。http://d.hatena.ne.jp/Sucker/20081016#1224107802
で、中島義道が以前言っていたように、初期の春樹はオタクである。自分の世界から歴史と社会を切断してビール飲んでポテトとサンドイッチ食って女の子と寝ているような。それで自分の繊細さを温存しているような。自分の「壁」の中に閉じこもっているような。そこまでうまく「壁」を作れるなら実際に外出てって稼げよこら、みたいな。
というか実際都市化ってそういうことで、地域に縛られた産業から、労働者の大量生産とコンベア式の進路決定とそれぞれの高度に効率化された仕事をこなすとみんな一時的に歴史と社会から切り離されて、オタクとかヤンエグ(古)とかいうタコツボにはまるしかなくなる。ファスト風土ってのはつまり都市化した田舎のことでしょう?
話がそれた。そこから、震災とかオウムとかあって(震災は強制的に人々を結びつける危機、オウムは切り離されすぎた人間に這い寄る「壁」が結びつけた危機)、『アンダーグラウンド』とか書いて、なんとかほかのタコツボと結びつこうとしているのが今の村上春樹だと思う。『ねじまき鳥クロニクル』は語り部としての間宮中尉、どこかにいる社会的な「壁」としてのワタヤノボル(『羊をめぐる冒険』でいう羊)が出てくるだけなので、過渡期そのものの作品だと思う。私としては『カフカ』は失敗で『アフターダーク』は傑作。
でも私がいちばん好きなのはオタクの村上春樹なんだけど。完璧に社会と歴史を外部に突き放して、洒落たスタイルと自意識、十分な容姿と能力を用意して、その中で100%の女の子と出会わせて別離させてみせる村上春樹。あれを思春期に読んだから毒薬みたいにやられたんだと今でも思う。

*1:http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090219/1235003050

*2:このモチーフはカミュの『ペスト』にも同じような文脈で出てきます