泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん

泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん 松下竜一

作者二十五歳のときに初めて作ったこの歌で朝日歌壇に投稿、入選したらしい。驚く。
家族の病気で大学進学を断念後、生家の豆腐店を継いで歌作を始め、その後経営難から閉店、ルポ作家に。反公害、反開発、環境権の保護を生涯のテーマに九電、中国電相手に火力、原子力発電所建設反対運動も行った人、だそうで、昨日か一昨日の日経春秋で上記の歌が紹介されていたのだが、春秋子は日経新聞の記者なのにしみじみ書いていていいのかなあなどと作者の来歴を知って思ったりもした。

あけましておめでとうございます

(いつの話だ)
最近年甲斐も無くゲームにはまって時間を潰しています。PBMというかTRPGを対戦型のカードゲームと混ぜて携帯ゲームにしたようなやつです(意味不明な説明)。もっとまともなことも書きたいので本を読む時間をどうにかするか……

たのしい人生

絶望から這い上がった人が人生を肯定していても他人事にしか思えない。温い私が肯定しても意味がない。絶望の淵にある人が人生を肯定していたら? 哀れみを感じるか疑念を持つかもしれない。では私は誰によって人生が肯定されれば良いと思っているのか? 誰によっても肯定されなければ。肯定もされないほどに、すべての人生が絶望を人に与えない人生であるならば。

日記を放置してしまっているので適当に昔書いた文章を貼ってお茶を濁す

スキというのは列挙的、外延的なのではないか。だから好き、に抵抗があるとすれば、ならば好き、に似通ってしまうところがあるからではないか。好きに対して必要な記述はできるが十分な記述はしにくいのではないか。たとえば毛の生えたものなら何でも好きであるとか、丸いものなら何でも好きというのは難しい。耐え難い異臭がするかも知れない。しかし猫であるなら何でも好き、と言いきれる人はいるかも知れない。
あるいは君であるなら何でも好き、というのはあるかも知れない。しかし「君」の十分な記述というのは難しい。いちいちの記述、やさしいだとか声が高いだとか髪が黒いだとか骨が太いだとかは言えるかも知れないが、その全てを言い尽くすことは難しいだろう。しかもそれはときどき時間が経って変化しても好きの範疇に入っている。スキの回りの記述を剥いでも新しく記述が湧いてくることがある。

みなもと太郎『レ・ミゼラブル』

http://www.j-comi.jp/book/comic/42361
先日偶然読んだ。登場人物たちが深刻に悩んだかと思えば有頂天に喜びまわったり、ドタバタしていておかしいんだけど、あまりにもドタバタしているからか、自分の悩みや喜びも他人から見ればこういうものなのだろうかと、ふとそのドタバタがとても身近になってしまって、なんだか身につまされる。
あと時々の重要な場面の絵の迫力が凄かった。原作では死んでしまう警部が助かって、夜が明ける場面とか。
このかまびすしさと奇妙な迫真感はドストエフスキー的とかいうんじゃなかろうか。ドストエフスキー一冊しか読んだことないけど。